人間は絶えず法を変える。宇宙は変えない。
人間の法は、誰が権力を握っているか、社会が何を是とするか、今世紀において何が都合よいかによって移り変わる。宇宙の法は、ただの一度も動いたことがない。
サナータナ・ダルマ ——それら不変の法に与えられた名である。宗教ではない。儀式でもない。いかなるカーストの、共同体の、伝統の所有物でもない。それは寺院と学者だけのために意図されたものでは決してなかった。朝に目を覚まし、どう生きるかを選ぶすべての人のためにあった。農夫のために。親のために。商店主のために。学生のために。
これらの原理に、入門も、グルも、生まれの特権も要らない。求められるのはただ一つ——それに従って生きる正直さだけである。
第一の原理
宇宙は道徳的ではない。
宇宙は精確である。
世界に投じたものは、返ってくる。神の褒賞や罰としてではなく——帰結として。これは信条ではない。誰もが自らの人生において目撃してきたことである。
正直さの上に事業を築く者は、安定を手にする。近道の上に築く者は、やがて足元の地面が動きはじめるのを知る。恐れによって子を育てる親は、返ってくるものとして距離を得る。敬意によって育てる親は、敬意を得る。例外を探すのをやめさえすれば、この型はどこにでもある。
これを賄賂で逃れることはできない。いかなる儀式も帳簿を消さない。寺院への寄進も、積み上がったものを取り除きはしない。宇宙は支払いを受け取らない。ただ、あなたが実際に投じたものを記録するだけである。
返りは、ときに即座には来ない。何年もかかることがある。次の世代へと持ち越されることさえある。だが勘定はつねに正確である。目に見える原因のない苦しみ、何を試しても繰り返される型——そこには原因がある。勘定はまだ閉じていない。いまも動いている。
それがカルマである。罰ではない。精確さである。
第二の原理
真実は規則ではない。
それは構造上の必要条件である。
自分が自分に嘘をついているとき、それを教えてくれる師は要らない。あなたはすでに知っている。真実だと知っていることと、自分に言い聞かせていることとのあいだの、大切にしている価値と、実際の生き方とのあいだの——その隔たりを記録している部分が、どの人のうちにもある。
すべてが腐りはじめるのは、その隔たりにおいてである。劇的にではなく、一度にでもなく——静かに。過ちについて自分に正直でいられる人は、それを正すことができる。埋めてしまう人にはできない。埋められたものは消えはしない。積み重なってゆく。
これは他人に告白することでも、人前で正直さを演じることでもない。それはまったく私的なところから始まる。あなたと、あなたが知っていることとのあいだで。作物の不作を正直に見きわめる農夫は、次の季節にやり方を変えられる。誰か他人のせいだと装う者は、同じように種を蒔き、同じ結果を得る。
自らに正直であること。それがもっとも基本にして根本である。他のすべては、そこから続いてくる。
第三の原理
秤は一つ。
例外はない。
自分にされて受け入れられないことは——他人にもするな。これがもっとも単純な原理である。哲学は要らない。誰もがすでに知っている。
商いで欺かれることを受け入れられないのなら、欺くな。信じている相手に嘘をつかれるのを受け入れられないのなら、嘘をつくな。わが子が辱められるのを受け入れられないのなら、他人の子を辱めるな。秤は一つ。等しく当てられる。すべての人に——自分自身も含めて。
これらの法は、差別に対して直接に語りかける。生まれのゆえに劣った者として扱われることを受け入れられないのなら——生まれのゆえに他人を劣った者として扱うことはできない。秤は一つ。例外はない。実際に行われていたようなカースト制度——ある人の生まれがその人を不可触とし、別の人の生まれがその人を高めるような制度——は、この原理を完全に破っていた。宗教の名のもとにそれを強いた者たちは、これらの永遠の法に従っていたのではない。破っていたのである。
説くことを、生きよ。さもなくば、説くな。
第四の原理
いかなる肉体も免れない。
自分の富が帰結を免れさせてくれると信じる裕福な者。自分の地位がそうしてくれると信じる権力者。自分の儀式がそうしてくれると信じる信心深い者。自分の血筋がそうしてくれると信じる高い生まれの者。
そのどれも、免れさせはしない。
法は、適用の前にあなたの銀行口座も、身分も、カーストも、資格も調べはしない。世界に投じられたものは返ってくる——王にも農夫にも等しく、グルにも学ぶ者にも等しく、権力ある者にも市井の人にも等しく。特権の区分は存在しない。免除の期間もない。
これらは、これまでに存在したもっとも民主的な法である。政治的な意味においてではなく——宇宙的な意味において。すべての人間が、その下に等しく立つ。それを超える者はいない。その及ばぬところにいる者もいない。
存在の法の前では、すべての者が等しい。はじめから、それがすべてであった。
そこから導かれるもの
人ではなく、
原理を信じること。
これらの原理は、いかなる伝統にも、寺院にも、師にも属していない。それらは発明されたのではない。存在が働く不変のありようとして、見出されたのである。これまでに生きたすべての人にとって真であった。これから生きるすべての人にとっても真であり続ける。
これらの法は、はじめからこのように生きられるべきものであった。寺院においてではない。あなたの語り方において。あなたの働き方において。目の前に立つ人を——その人が誰であろうと——どう扱うかにおいて。
あなたはすでにこのすべてを知っている。ずっと知っていた。永遠とはそういう意味である——これらの法は発明されたのではない。見出されたのである。